死に対して

普段、私達は“死”に対しあまり意識をせず生活しています。

しかし“死”は突如として向かい合いあわなければならないことがあります。

事故や病気や災害、時には自殺などで急に親しい方が逝ってしまうことがあります。

身近な方が亡くなることは辛いです。

故人に対しての想いが深ければ余計に苦しいです。

亡くなった方への“思い”が潜在意識に強く入っていますと時に“痛み”として出てくる場合があります。
私自身も経験いたしましたがよくあるのは五十肩です。
このパターンは難治性で1~3年痛みが抜けないこともあります。

また友人など普段親しく交友していた方が急死され、自分の中で死に対する恐怖が大きくなってしまい“うつ”になってしまう方もいます。
特に肉親や若い方に対しては辛く悲しみも深いです。

もしお子さんであれば、その思いは生涯に渡り常に故人を弔い続けることとなります。

ペットにおいてもペットロス症候群いう言葉があるように、可愛がっていた子を見送るのは辛いことです。
動物の寿命は当然のことですが人間より短いですから動物を飼うことはその死と向き合うこととなります。

私達は現世では肉体での活動が主です。

しかし本来の存在は“魂”です。

人は自分の死を認識し、向かい合うことで 初めて“生”に対して向かい合うことが出来ます。

“死”を知ることで“生きる”ことを“考える”のです。

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自己否定について

日常、物事が上手く進まないことがあります。

責任感の強い方や完璧を望む方はその原因を“自分が悪い”と思ってしまう場合があります。

物事は原因と結果の法則が働いています。

上手く行かないことは何らかの要因によってことが進まない訳で、問題を解決するには客観的な分析と判断が必要となります。

ある意味、失敗なしでは成功はなく、向上も出来ません。

問題が困難であればそれだけに努力と継続が必要になります。

ときには反省も必要なのですが、自己否定してしまうと全てに“気”が止まってしまうので自身の身体も物事や人間関係も“気”の流れが止まってしまい、上手く事が進みません。

自分においても他人においても否定や拒否では事は進まなくなってしまいます。

とかく自己否定に陥りやすい場合はある特徴があります。

その心の根本は“依存心”です。

自分がいなければという思いはある意味“現実逃避”であり、周りが後は何とかしてくれると考えてしまうか、自分が居なくなることで周囲の人が良くなってくれるという幻想をもってしまいます。

人は生涯、発展途上です。

どんな時も変えて行く努力が必要です。

人は自分が自分のことを認められなければ他人のことを信じることが出来ません。

本来、人は才能や向き不向きはあるにせよ、さほど大きくは変わりません。

辛さや苦しみは一緒です。

大切なのは自分の苦しみを知ることで他人の苦しみを分かることなのです。

中には“いじめ”などで特定の人物を多くの人間が自己否定に相手を追い込んでいきます。

“罪悪感”を持たせマインドコントロールに至らせ、相手を支配しようとすることもします。

加害者は精神的に優位になるので気持ちが高揚してしまい次第にエスカレートして行きます。

そうなると自分自身ではその気持ちを制御することが出来なくなってしまいます。

それは加害者にとっても良くない事なのです。

そんな時はまず今の状況から離れることです。

他人の苦しみを分からない人は、イエスは“(真理が)わからない”人々と言われました。

無明な状態で自分の行なっていることに善悪の判断がつかない人々です。

傍観者は怖くて周りに逆らえないか、他人のことは関心持たない人々です。

彼らもまた“依存者”でどこまでいっても加害者と被害者の間を繰り返します。

生きているうちにそのことに気がつかなければそのまま人生が終わってしまいます。

最終的にはその“つけ”は全て自ら向き合うこととなります。

これはとても不幸な事です。

中には自分の行ったことに対し罪悪感も持ち合わせていない人も多くいます。

問題を大きくし、表面化させることも必要です。

悲しいことに今の社会でも学校教育でも“正しいこと”に対しては消極的に思えます。

感情を強くせず客観的に状況を把握し、思考を全開に使って“今、どうすれば良いか”考えることが大切です。

“思う”ことより“考える”ことです。

当事者たちが無理であれば近くの方々の助けが必要です。

そこに少しでも人を思う“気”が流れてくれば、物事は良い方向に向かいます。

“気”の質について

“気”は情報と書きましたがエネルギー体のこの情報の中には “質”が有ります。

文化、芸術、音楽などは感覚的に気の“質”を見るものではないかと思います。

良いエネルギーは人や環境を良い状態に導きます。

逆に悪いものは“気”を淀ませてしまいます。

相互的にエネルギーが働いている空間を“間”とか“場”という言葉で表現するのかもしれません。

もちろん身体も良い”気”の状態があればエネルギーの循環はよくなり根本的に元気でいられます・。

人は感情により心を動かし行動します。

但し湧き上がった感情を対処したり、分析したりすることは殆んどあまりしません。

私たちは無意識に自分の感情に自分が支配されてしまうことが多くあります。

もし感情の根本がマイナスエネルギーであれば不安、怒り、悲しみなど、気持ちがマイナスになれば身体もマイナスに傾きます。

一見良く思われそうな“心配”も実はマイナス感情の一つです。

”心配”という感情を分析すると相手に対しての自分自身の“不安”の思いですのでエネルギーは当然、マイナスになってしまいます。

そして相手に対して結局、マイナスなエネルギーを送ってしまうので良いことはありません。

人はどうしても相手のことより自分の気持ちが先に出てしまいます。

自分自身の”こころ”に対しコントロールを行うことはとても難しいです。

そして、それを訓練するのは長い時間が必用です。

また生じた感情を我慢して抑圧するとそのエネルギーは蓄積され、別の形で発散しよとします。

我慢を続けているとエネルギーはさらに増幅し圧縮されて行きます。

そして限界まで達すると爆発し、そのエネルギーがある程度、出し尽くところまで状態が落ち着きません。

大切なのは気持ちを“理解”し、“納得”することです。

精神的成長は各人、様々で、生きた年数とは比例しません。

多くの事を理解出来たかが重要です。

中には良いこと悪いことが判断出来ない方もいます。

自分の感情が強すぎて人を受け入れられない方もいます。

不安が強すぎて行動を取れない方もいます。

いわば“わかることが出来ない状態”の方です。

それでも相手の状況を理解することで“しょうがない”と思えば“気”は一時的でも流れて行きます。

善悪で人を裁くことは抑止力にはなりますが、精神的な成長の視点でみるとよくないのです。

やがて、その方々が精神的に成長して自身が“悪い”と理解される時期があるかもしれません。

人の思いは良くも悪くも変化します。

今の状況がその方を判断する上で絶対的ではないのです。

今が良くない状態でも将来、成長する可能性も秘めています。

逆に今がよくても将来も良いかは分かりません。

ともすると、悲しいことに良くない状況のまま人生を終えてしまうかもしれません。

人は見守ることが重要なのです。

しかし、人から被害を受けた側にすれば加害者に対してはまず怒りを感じますので難しいことだと思います。

ともすると正義を主張することは逆に裁く方にも破壊を生じてしまうこともます。

それは対象の相手がどうあれ、怒りや憎しみの感情はその方本人からマイナスエネルギーを発してしまうからです。

もし命をもって相手を報復したとしても後には“虚しさ”しか残りません。

意識の依存と問題の空洞化

私たちは、日々仕事や学校に行き、家族や多くの人と関わりながら社会生活をおくっています。

大半の方はまず今の生活のなかで、脅威は殆ど感じてはいないと思います。

いわば安定や安心に至るように決められた社会のシステムに則って、相互的に良い環境を保てるようにプログラムされた上で生活を行っているのです。

多くの方が規定の年齢とともに既存の教育システムに則って学校に行き、社会に出て仕事に就きます。

そこで多くの人間関係を築いていきます。

社会は相互的な関係で成り立っていますので安定を保つことは難しく、多くの歪みを生じてしまいます。

学校や会社など、集団の中で多くの場合、常にお互いが評価しあう関係を作ります。

そして多くが他人の評価により自己評価を行ってしまいます。

その中で自分に対して、自分自身をどう観ていくかが大切となります。

人には個性があって当然なのですが、現在の画一されたシステムにおいては、自分自身で正しい自己評価を行うことが難しいのです。

社会のシステムはある一定の枠組みを作り、そこに人を割当てていくことを行います。

しかし”気の法則”では批判、管理、抑制されると双方ともエネルギーの循環が悪くなります。

エネルギーは滞ると淀んできます。

さらに状況が悪化すると、逆流を生じたり変性したり暴発したりし最終的には破滅の傾向に至ります。

そこにはお互いの”力”の関係で、どちらが”優位”なのか判断し、優位な側の方に事の主導権が移動し、多くの場合において支配と服従の関係に至ります。

それは個人の間でも集団でも、同様です。

そのため我々は、他人に対し相手がどう自分をみているか、さらには相手が自分に対しどのような行動をとるのか、どちらの”力”が優位であるのか判断します。

多くの場合、“正しいこと”より有利なこと、もしくはあまり状況を考えないことを選択してしまいます。

そして自分が不利な場合や状況が把握出来ない場合は、自分の意志を相手に委ねてしまいます。

ともすると育ってきた環境で無意識的に相手に服従してしまうこともあります。

この精神状態が“共依存”関係であり、支配-服従の関係を作り、そして双方とも離れられない関係に至ります。

この“依存的”関係は、病気をはじめ多くの家庭問題や社会的な問題を起こしています。

本来”人”が生きるという視点で物事を考えるとお互いの関係で大事なことは”力”ではなく“共存”であり“共栄”なのです。

本来、生命の本質は”解放”にあります。

生きることにはお互いが受け入れられることが必要で、そこには分かち合えるこころが大切なのです。

エネルギー自体がプラスに向いてなければ、そこに”気”は流れません。

人は感情により左右され、自分たちと異なるものには不安を感じ、恐れから他のものを排除しようとします。

時には力との衝突を起こし、相手を支配しようと思います。

しかし”力”の関係ではお互いの間に”気”は流れません。

何故なら根本的な感情がマイナスエネルギーだからです。

”誰々がこうだから私がこうなの”という考えは本来の目的にベクトルが向かわず“人が大切にしなければいけないこと”が抜けてしまい、堂々めぐりで問題が解決に至りません。

これを意識の空洞化した状態と私は考えました。