紀元前より、よく生きるために多くの聖人が教えを説いてこられました。
悟りを開くことは言い換えると真理を知ることです。
瞑想は心静かに自身のこころを見つめ、自我を離れ宇宙万物と一体感を得ることが目的です。
その境地に達した時に真理が見えてくると言われます。
彼らと同じ境地に至ることは常人にはとても難しいことです。
仏陀やイエス、孔子の教えは現代にも引き継がれています。
聖人の方々の教えに共通することがあります。
”自分が嫌なことは相手に対し行うことは良くない”
”自分が“本当に”必要と思うことを相手に施した方が良い”
と言うことです。
それは相手に向けて何を目的とするかといえば”自立”させることです。
(一般的に自立は社会的自立を指しますが、ここでは意識的自立のことで広義的には社会的自立も範疇に入ると思います)
”自立”とは自身で何が良いのか悪いのか考え行動することです。
そして自身の言葉や行動には責任をとることです。
それが自分の中心軸を形成します。
そのためには各人の自立心が大事となります。
時に人は自分だけではどうにもならない事に遭遇します。
そんな時は援助が必要となります。
人はお互いが助け合わないと生きていけません。
しかし、頼りきっても良くはないのです。
もし自身で行動が起こせる時はサポートするに止め、やがて離れる事が大切となります。
善悪に対しても”社会的”に良いことか、”魂”のレベルで良いことなのか判断が変わります。
本来の”学び”は”人がどのように生きるか”を知るためのものです。
私たちが義務教育で学んできたものはあくまでも文部科学省が決めたガイドラインに従ってつくられたカリキュラムです。
現代で生きる上で本来、大切な事柄があります。
医学、哲学宗教、金融経済(お金)、近代の歴史などです。
今後、日本が国際社会で生きて行くためには必要なのです。
しかし義務教育においてはこれらの項目はさほど重要視されていません。
また教育者が思想的、政治的、宗教的に偏った考えをもつことは良いことではありません。
教える側にも“学び”と“自立”が必要なのです。
人はまず相手に対し意識がはたらいて、行動に移し事が生じます。
相手が何を思って自分に対して、何を言い行動をしたのか、それは感情から発したものなのか、ただ単に思いつきや損か得で考えたのか、本当に自分の事を思ってした行為なのか見極める必要があります。
もしそのことが何なのか理解出来、納得されれば”気”は流れます。
社会を良くしようと考えるなら、私たちは個人的なレベルでも社会的なレベルでも賢くなる必要があります。
そのためにまず“学び”が一番、大切と思います。
そうしなければ支配や管理しようとする側の言いなりになってしまいます。
それは共依存の関係からいっても”お互い”良くないことです。
社会的にみれば力のある方が有利です。
歴史をみても力の強い勢力が領土を拡大し植民地化しました。しかし二度の世界大戦以降、多くの国が独立し、そして国境が引かれました。
そして多くの地域で大きな戦争はなくなりましたが、未だに中東やアフリカ、南米、そしてアジアでも紛争が続いています。
日本においても近隣諸国との問題が続いています。
世界が変動した時に変革をもたらした多くの人物は良くも悪くもこのことを理解していました。
植民地からの独立運動、共産主義への革命、独裁政治、奴隷解放運動、二度にわたる世界大戦など、近代の歴史にて多く国でその指導者が大衆を動かし国を変えていきました。
日本でも明治維新において、多くの改革者が孔子や荘子の言葉を学んでいます。
それでも変革には争いが伴うのです。
世界的にみても、多くの変革にはファシズムによる戦闘により、多くの人命が失われ、地域が占領されていきました。
しかし、どの時代、地域においても、指導者がもし人を征服、支配しようとしても”気”は淀みを生じ、逆の流れが生まれます。
それは歴史を学べば分かります。
”魂”(スピリチュアル)のレベルでも人はそれぞれが”学び”のため”生”を与えられていると考えます。
“生きる”ことを通して人と人とがお互いの”こころ”の間に”深いもの”を刻みつけていくことです。
お互いが良くならないと”気”の流れは良くなりません。
それは一人一人が相手を尊重することによって成り立ちます。
人は、つい目の前にある問題に対し安易に答えを求めようとしてしまいます。
なかなか決着が出来ない事も多いのですがお互いが尊重し、安心できるような解決を望みます。