本来の自分 “自分は自分のために生きる”

本来の魂は純粋なものです。

そして自由な存在です。

個人の名前もありません。

宇宙という大海の一滴が私達それぞれの魂でありひとつの肉体に宿っています。

宇宙の法則においては全てが同じであり平等です。

自己の垣根がなくなればその境界は無くなり全てのもの(宇宙)と繋がります。

自らの欲を超越した純粋なる祈りは“大いなる力”と繋がり、全てのマイナスエネルギーをプラスに変換する方向に至ります。

自分の価値観を持つ。

自分の価値観に従って生きる。

そのためには自分の価値観を構築しなければなりません。

いわば本来の“学び”はそこにあります。

自分の魂が何を感じているのか、感じとるのです。

他人の云うことはあくまでも参考です。

自分に対して”正直に良いと感じること”を信じることです。

自分は“自分のため”に生きる。

“自分の力”で生きていく。

そこには“喜び”と“充足感”そして“力強さ”があります。

それが“自信”の源となるのです。

本来は自分と他人と比較するものでもありません。

自分を否定することでもありません。

誤った意識は“気”の流れと止め病気を引き起こして行きます。

自分が自分をきちんと認められたときにようやく他人との繋がりが分かるようになります。

もし”自分が人のために尽くす”と決めたのであればそこには自分の意識が存在しています。

行動は”人のため”でも意識は自分のために行うことなのです。

その場合は見返りがないのです。

他人に助けてもらうことは悪いことではありません。

それは“お互いさま”です。

しかし長く他人に依存したり従属したりすることは良いことではありません。

自らが“生きる力”を失っていきます。

しだいに気持ちも身体も委縮してしまいます。

自分を肯定することは同時に相手も肯定することです。

相手に対して自分自身と同様に思うことです。

最低限、自分が“嫌”と思う行動や発言しないことです。

それは自分の発言や行動に責任をもつことです。

たとえ他人に従わなければならない時でも自身の行動であることを認識しなくてはなりません。

そのためには思慮深くなければなりません。

個として生きることは孤独であり不安です。

そして全ての人の最期には“死”があります。

自我意識が強く自分や自分の家族さえ良ければと思えば余計にその“不安”は強くなります。

人は身体と心、どちらが大切でしょうか?

私は心と思います。

もちもん健康を維持することは大切です。

本来、人のコア(中核)は魂です。

肉体はいわばツール(道具)です。

しかも保証期間がない期限付きのレンタル品です。

心が安定すれば身体も従います。

欲から発せられるものは心の満足はえられません。

お金や物では真の安らぎは得られません。

相手の幸せを本当に願う事が唯一、貴方のこころに平安をもたらしてくれる事です。

幸せとは人として“生きていて良かった、嬉しい”と本心から思えることと思います。

それは人と人の心がお互い受け入れ合い、信頼できるところに“安心”が生まれます。

大切なことは自らの心の深いところから”反省”と”感謝”と”受け入れる”ことです。

他人から強要されて行うのではありません。

自らがその“思い”で行わなければ何の意味もありません。

過去、多くの聖人の方々が弟子や大切な人の死に対して悲しみ、そして嘆いていられます。

悟りを開いても、なお人は魂の奥底に深く人に対しての情を持っているのです。

どう生きるか、それは個人への問いかけなのですが、人はやはり人と人との繋がりの上に喜びや幸せを感じるものなのだと思います。

他者との関係の中で自分がどのように生きるか、それが“生きる”ことの最大の学びであり目的であり、所以かもしれません。

肉体が死を迎える時に私の“魂”と最期に向き合い満足できているか?

そこに私の人生の本来の“価値”があると思います。

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本当の強さ

“強い”ということはお互いの力の関係です。

単純的には絶対的エネルギー自体が大きければ力が強いことになります。

もちろん量的に多ければそのエネルギーは大きくなり増大していきます。

例えば軍備や兵器においてもその殺傷能力が早くより大きければ性能が良いことになります。

力が強ければ弱い立場の人達を“力により支配”し自分の都合の良いように言いなりにします。

それは過去から現代においても世界中至るところで日々行われています。

強いものが弱いものを支配する世界。

多くの者が少ない者を支配する世界。

性能の良いものが良くないものを管理していく世界。

わたしたちは本来そのことを望んでいるのでしょうか?

競争社会において、人は支配する側に至るために努力しようとします。

支配出来る人間が本当に強い人なのでしょうか?

自分が常に良い立場に至るために行動する人を“賢い”といいます。

もし人が“魂=スピリット”がなければ従属した力のピラミットの中に埋もれてしまいます。

管理された社会は一見安定しているようにみえても実は支配的な人間関係においては信頼を築くことは難しいのです。

お互い相手に対し“不信”であり“不安”なのです。

強い独裁はいつか内部から崩壊します。

そこには常に緊張が存在しています。

相手に対して服従すれば委縮します。

否定、緊張、収縮、委縮、攻撃、不安など。

これらのキーワードは身体に置き換えてみるとまさに“病気”にあてはまります。

痛みは緊張から生じます。

痛みの多くは筋の収縮を伴います。

炎症は外部、内部からの攻撃で生じます。

癌や自己免疫疾患は自分に対しての攻撃です。

不安は”つかえ”のもととなります。

精神的な病には“不安”がその根本に存在していることが多いです。

身体の組織は気が流れないと委縮していきます。

病は気からといいます。

支配と病気には何か関連している気がします。

日本は社会的には極端な支配はありませんがいたるところで緊張した関係が生じていると思います。

そこには力による微妙な支配関係が構築されていると考えられます。

人が集まれば、ほぼ力の関係を築いていきます。

社会はどこに行ってもこの”力の関係”が存在しています。

正しいことを発言したり行動したりすることで周囲から批判の対象となることもあります。

時には辛い立場に至ることもあります。

周りから批判、排除を受けることさえあります。

生活も困窮することもあります。

時には“生きる”ことが“死ぬ”ことより辛く感じることもあります。

ただ人は“魂”の存在であるかぎり自分自身には誤魔化すことが出来ません。

肉体は何時か無くなりますがその人の存在は他人の心の中に残ります。

そしてなにより人は自分に正直で生き方に納得出来なければ“こころ”に真の平和は訪れません。

過去の歴史でも大きく世の中が変化したときに正しい価値観をもって行動をとった人物が数多くいます。

中には志半ばで命を絶たれた人も有名無名問わず沢山いました。

私達は過去からも大切なことを多く学ぶことが出来ます。

本当の強さは力に屈せず、自分の価値観、信念を貫ける人と思います。

その信念にはたとえ自分と違う考えを持っている相手でも受け入れ話を聞きお互い理解出来る関係を持てる人ではないかと思います。

人は単に力だけではなく“対話”する能力があります。

お互い人と人が対話によって通じ合う“力”ももっています。

人が信頼出来る関係が築ければ世の中はやがて“損得”や“殺戮”、“奪い合い”のない世界に動いて行くのでしょう。

現在の社会について

お互いを認められない社会は基本的に我欲が支配し、いつ相手が攻撃してくるかわからない状態をつくります。

“不安”が強くなり心から相手のことを信頼出来ません。

不信のため相手を試し対立が生じます。

そして最終的に相手に対し支配、抑圧をします。

それは個人的レベルでも、組織間でも国単位でも事は同じようにエネルギーは働きます。

今、世界は国家間の大きな戦争はありませんがあらゆるところでテロや紛争がおこり多くの命が犠牲になっています。

そして今の世界は正面では友好関係を築いていますが、まだ背中に武器を隠して保っている状況です。

ただ結果的には大規模な国家間の衝突が避けられていることです。

人類の歴史はお互い領土を奪い合う戦いの歴史です。

世界中の至るところで国家という概念がない時代には強い民族が多くの土地を制していました。

そして20世紀、大きな世界大戦を2度行い、国境が定められ、現在に至ります。

今の日本は決して肯定出来る世の中ではありませんがとりあえずは均等がとれている状態と思っています。

それでも福島の原子力発電所の問題をはじめ、真っ先にしなければならないことも沢山あります。

意見や思想、宗教の対立で人が憎しみ合い殺し合いをするのは悲しいことです。

世の中には自らの利益を目的に他人を混乱させている人々や組織もあります。

人として生まれてきた目的を忘れ、目の前の事に翻弄され利益をえることを生きる目的と勘違いしている人が沢山います。

人が本来、精神的存在であるのに歳をとってもわからないで生きている人も多いです。

多くの方々がそこに”不幸”の原因があることに気が付けないのです。

自分の価値に他人に評価させてしまう今の社会のシステムです。

全ての人の意識が変わることにはまだまだ時間がかかると思います。

「他人を攻撃してはならない」

「他人を裁いてはならない」

「自分を敵とみなす他人でも受け入れ大切と思いなさい」

「お互いを信頼し合いなさい」

“自らの命”をかけ真理を説かれた方がかつていらっしゃいました。

人として”成就”する。

イエスは“人と人とがお互いが信頼出来、心が通じ合う”そんな世の中が築けることを望まれていると思います。

“こころ”の浄化

人は本来“ありのまま”の存在です。

そして魂は人間の“本質”ともいえます。

人は“霊的“な存在という訳は”魂“を内在していることにあります。

そこには“良い”、“悪い”はなく”私”というひとつの結果として存在しています。

“ありのまま”の自分を認識し受け入れていただくことが大切です。

“魂”の器が“こころ”と考えます。

自分自身の“こころ”に正直であることが一番大事です。

人は他人との関係において相手の状況を考えるより、まず“自分の気持ち”が湧き上がってきます。

自身の感情が強ければ相手に対し自分本位に発言したり行動をとったりします。

知らず知らずに私達は自身の意図していないところで相手に対して傷つけたり、また傷つけられたりしてしまっています。

もし過去に自分の過ちで誰かを傷つけてしまったら謝ることが必要です。

もし当人がいなければ“ごめんなさい”と相手の意識に向かって心から詫びてください。

相手の方が何処にいようと故人であってもかまいません。

これは相手に対して行うことなのですが、その主体は御自身の事ととらえてください。

そして今まで自分を支えてくれた全ての人や食べ物、ペットや多くのものに感謝してください。

特に身近な人に“こころ”から“ありがとうございます”と感謝の意を込めてみてください。

他人から何か言われて気になることは自らが相手に対しての“思い”が存在しています。

また自分も相手に対し善悪様々な欲があります。

そのエネルギーは同等です。

相手に対しての自らの“思い=欲求”がなければ関わらずに済みます。

自分自身に向き合った時、他人の“評価”はどうでもいいことなのです。

自らのマイナスエネルギーを浄化するには

・自分の“こころ”の内にあるマイナスエネルギーを意識する。

・そのマイナスエネルギーによって自分が発言したり行動したりしていないか意識する。

・自分自身の発言、行動には責任があることを意識する。

どうしても“こころ”からマイナスエネルギーが湧いて自身が支配されそうになってしまう場合は、この宇宙を創造した“大いなる力”に対し祈ってください。

“大いなる力”は近くにあります。

私達も“大いなる力”より生まれました。

相手に対しもし怒りや憎しみ、心配や悲しみなどマイナスの感情があれば唯々純粋に祈ってください。

相手に対してや自分に対しての願望を祈るのではなく相手に向かい“ただ祈る”のです。

自らの心が相手に対し動揺がなくなるまで何回も何回も時間をかけて祈ります。

自分の心が安定するまで祈るのです。

自分に対して“正直”に“心に安らぎ”が得られるよう祈ってください。

いわば自身の心の“浄化”です。

そうすれば貴方は全てを受け入れることが出来るようになります。

全てに対し“気”をかわすことが出来るようになります。

相手に向ける気持ちは必ず自分の意識から発せられます。

自分の心が平安であれば他人の行為は気に障らなくなります。

真理を学び、人生を覚悟することで心は平安になります。

そして相手の事を“こころ”から願えるようになります。

人として成就することが今、生きている目的です。

成就出来るよう繰り返し“大いなる力”に祈ってください。

”大いなる力”は望むものに力を与えます。

ただし善悪には関与しません。

ただ自由意思があるのみです。

そして結果が生じます。

変化があれば次の結果が変わります。

追記) 通信簿の話

人は出会う人にそれぞれ通信簿をつくり評価の対象にしていきます。

それはたとえテレビやネット、会って話をしたことのない人でも極一部の情報だけで通信簿(評価表)を作り採点していきます。

その数は年齢とともに増大していきます。

そして自分も多くの他人から通信簿を点けられています。

時折、他人と第三者の通信簿を見せ合い自分のつけ方が良いのか確かめようとします。

そして共通してれば意気投合しますがその状況は時によって変化し定まることはありません。

人は常に他人が点けた通信簿が常に気になります。

それでは気にならなくするにはどうすればよいか?

それは自分の持っている通信簿を破棄してしまうのです。

そして新たに通信簿をつくらないで他人を評価しないことです。

現在の状態を見るのみです。

何かがあれば人は変わります。

今は過去の結果の現れに過ぎないのです。

そして今の状況から次の結果になっていきます。

どう考え、どう行動するかが大事なのです。

自分と向かい合う

ここまでいろいろ書きましたが私自身がこのループから逃れられずにきた人間です。

そのためよく分かるのです。

周囲から認められたいがため自己を抑圧し、良いひとを装い、心も身体も傷め、人のことを信用出来ないため周囲とよい人間関係も築けず、自分の大切にしなければいけない人を傷つけ、自己否定と自己嫌悪をくりかえし最終的には自己破滅に至るところでした。

共依存意識から克服することは簡単ではありませんが不可能ではありません。

時間がかかりますが繰り返し自分の意識を訓練することでループから抜け出せます。

まずは自己をよく観察することです。

ここで大事なことは現状の自分のこと、身体やこころの状態を客観的に観て行くことです。

現状に物事が生じたことは“ひとつの結果”と捉えていくのです。

そしてこの世にあるすべての事実を認めてください。

事件や事柄を善悪で判断するのではなく事実として認めるのです。

ここで感情的になり、自分に対し“裁く”ことは自己否定になり、そこから抜け出すことが出来なくなりますのであくまでも善悪で判断しないようにしてください。
観察するためには気持ちを鎮め、安定した精神状態をつくることが大切です。

気持ちと体をリラックスするよう心掛けてください。

訓練すると精神統一し物事に集中する力が出てきます。

ただ現在の状態が精神的に安定出来ない状態なら無理はしないでください。
(また精神医療を受けている方は医師にご相談ください)

無理に精神集中するとさらに気持ちが不安定に至ることもあります。

現在、自分はどのような状況なのか、

・社会的立場は、

・家族関係は、

・自分の身体(病気)は、

・こころは、

ひとつひとつ確認していってください。

次に本来の自分の感覚を呼び戻すことです。

自分のとっている行動に自分自身、本当はどう感じているのか。

違和感はないのか感じることです。

そして何故そのような状態になったのか考えてみるのです。

自分や人のことを商品価値の高い人間、性能が良い人間と判断してないですか?

自己否定、自己嫌悪していないですか?

行動や発言がまず自分の感情で行っていないですか?

他人の支配を受けて“こころ”が抑圧されていないですか?

自分の感情で他人を支配するような行動をとっていないですか?

自分の行動や発言は他人の立場にたって行っていますか?

他人に対し怒り、憎しみを抱えて生きていませんか?

自分の心に淀み、歪みをもっていませんか?

自分に対して正直に生きていますか?

他人の価値基準で考えて行動してないか?

今の“こころ”の状態が良い状態でありますか?

自分に対して思った時、“こころ”が“ホッ”とする安心した状況でありますか?

もし“ホッ”と出来ない、安心出来ないのであれば全ての答えがここにあります。

本来“こころ”は全てのものと繋がり、そして自分はその全ての一部です。

自分の“こころ”を意識する場合は自分自身に集中してください。

自分の中のマイナスエネルギー

怒り、憎しみ、嫉妬、妬み、貪り、攻撃などのマイナス感情は全て“不安”から発しています。

自らの“意識”が自らの“波動”を作りだします。

その因果によってその波動に見合った結果があらわれます。

それが自然の法則です。

人には善悪双方のこころをもっています。

関係を持った相手がどちらかの強いエネルギーをもっていれば自分の“こころ”の波動と共鳴します。

自身の中にプラスが強ければ相手のマイマスのエネルギーに同調しません。

逆に自分の中にマイナスのエネルギーが強ければ相手のマイナスエネルギーと共鳴同調しエネルギーは一層強くなります。

多くの人々が集まってマイナスの波動が同調すれば破滅行動をとっていくことが多いと思います。

自分の心に“マイナス要素を持つ波動”を持たないことが大切です。

マイナスがまた別のマイナスを引き寄せます。

当初の“不安”が“攻撃性”や“否定”を生んでしまう如く、別のマイナスエネルギーにも変化してしまうのです。

誰かを対象に自身の“こころ”がマイナスになっていないか確かめることです。

マイナスな波動では相手を受け入れることは出来ません。

それが身近で大切に思っている人に対する心配でも、かつて自分に対し酷い発言や行為をした人物への怒りや憎しみでも、自分の波動から発せられるエネルギーは同様に全て自分自身のエネルギーなのです。

たとえ相手が悪意を向けて攻撃してきたときに相手に対し “ゆるせない”と敵意を持てば自身の心がマイナスな波動に至ってしまいます。

あたかも水の中にいくつか綺麗な色の“絵の具”をたらして好い色を作りだしても、そこに黒を混ぜ合わせば全体の色は淀んでしまうのに似ています。

相手に対してマイナスの感情があれば、そのエネルギーと同等の相手からのマイナスエネルギーを受け取ってしまいます。

そうなると相手のことが絶えず気に掛かり心は安定しません。

善悪、全てが混ざり合い固有のエネルギーは自分から発しているのです。

そのエネルギーがさまざまな問題を作り出していきます。

そしてそのエネルギーは個々から全体に関与していきます。

すこし理解しにくいと思う内容ですが全て個々の意識が集合意識体と関与しているならば何処かの誰かが行うことも私の意識の一部と関与しているのかもしれません。

それはコンピュータのネットで例えるのなら個々の端末とサーバーの関係で繋がっていると思っていただければ分かりやすいと思います。

心に傷を負った人々

幼少の頃、周囲に対して心身に深い傷を負うと成人したのちも心の傷は癒えずその長き人生において苦しみ続けることになります。

罪悪感が心に住み着いた子供は自己の価値観を見いだせず、常に周囲に気を使い、いい人を装い、いくら努力しても心が満たされない“こころ”になります。

自分の言いたいことも抑え、自分の“嫌”という気持ちを抑え、自分の気持ちに無理をしても周囲に合わせます。

また逆に自身のこころの弱さを認めずあえて周囲に強い人を装ったり、他人の意見も聞こうともせず自分勝手な解釈をしたり、自分の考え以外認めない、人を肩書きや社会的立場などで良し悪しを判断する方も多くいます。

それも自己を保つ故の行動なのです。

“不安から生じる孤独感”は自分が作り出した幻想のようなものです。

そのことで自分が他人から“受け入れられなければいけない”という意識がつくられ“愛されるべき存在”としての自分をつくっていこうと努力します。

他人にも自分と同様の価値観をもって批判の対象にします。

そしてランク付けをして自分は“普通以上”でなければいけない価値観で生きていこうと考えます。

もし何か自分の価値が他人からの評価が低く否定されれば、自分は自己否定、自己嫌悪に陥り他人との関係を拒否、拒絶にいたる行動パターンをとります。

誰かを対象にしてしまうのは自分の心に満足出来ていないのです。

外に対象を求めても欲求は限りがなく一時の満足感は得られても次第に再び心は虚しくなります。

そして誰か“都合の良い対象者”を探します。

相手は親子、パートナー、友人、部下、生徒、後輩など自分より立場の弱い人や時には動物や植物、物、見も知らない他人をも対象とします。

時に社会のなかで同じような“気”の質をもちあわせた人が出会うとそこに支配-服従関係をつくります。

そこには共依存が生じますので信頼関係は出来ず“嫌”だけど離れられない、いびつな人間関係をつくります。

異性間においても自分と似た性格(気)の人物に惹かれ、やがて家庭を築きますが自分でも気付かないうちマイナスのループに至ってしまい共依存的な家族をつくってしまうことも多いです。

家族でも社会でも共依存関係はお互い倒れないように支えあっているようにみえますが実はお互い寄りかかっているのです。

共依存はひとりが倒れると連鎖的に皆が倒れてしまいます。

そして“こころ”は独特の寂しさ、孤独感が存在し、気の通わない関係を作るため、いろいろ努力しても本当に満足することが出来ず“虚無”感に至ります。

それゆえ何かに対し依存するような行動をとりますが底は無く、あくまでも一時的欲求を満たすのみで限りがありません。

(異性関係、ネット間のコミニィティ、ゲーム、お酒、ギャンブル、コレクションなど依存はどんなものにも対象になります)

家族間で一緒に暮らしているのにお互い拒否し、向かい合って話が出来ないことさえあります。

また話しても相手に対し受け入れが出来なければ言葉が攻撃になり、お互いを責める結果となってしまいます。

その“こころ”には常に自己への否定感と周囲に対しての不審や自己を攻撃してくる人間への強い攻撃性をもってしまいます。

その関係にはプラス的な自立した共存ではなく、マイナス的な否定、拒否、競争、攻撃などのエネルギーも存在します。

もし他人の価値観で自身の行動を選択した場合、仕事、勉強など自分が“嫌”なことでも“行わなければならない”とき自分より他人のせいと考えてしまい、マイナスなエネルギーは日々増幅していきます。

そして内に秘めた攻撃性は日々強くなり、あるときに暴発します。

(攻撃は暴力だけではなくネットでも“炎上”するように特定な個人的に限らず、不特定な個人や企業や組織、国にも対象は向けられます)

お互い“評価”し合うことは常に不安と恐怖、攻撃が混在し「やるか、やられるか」の意識を根底に持ち合わせていきます。

いわば“生きる”こと自体が“生き残る-サバイバル”になります。

そこには“死なない”ために“生きる”のに“必死”な状態になっていきます。

時に“いのち”をかけた家族関係や社会的組織をも作ってしまいます。

日常、平和である日本において多くの方がこのシステムの中で“生き残り”ゲームにはまっていきます。

その“思い”が強ければ“執着心”となり、心のダメージは深くなり、徐々に不安や恐怖心、そして攻撃性が増幅していきます。

攻撃性は単に暴力的なことだけではなく執拗に相手が困る、苦しむ状況を自身の行動で行うこともあります。
(自虐的行為もそのひとつかもしれません)

しかも自身では焦燥感を感じるものの“なになにでなければならない”意識が強く、その異常性に気付かず、自分や家族、周囲の人間を巻き込んでいきます。

そのマイナスのエネルギーは自分に向かえば全てでは在りませんが自分自身を攻撃するような病気(癌、自己免疫疾患、アレルギー、関節炎など)の要因やワーカーホリック、自傷、依存症、うつ、引きこもりなどの状態になります。

自分以外に向かえば周囲に対して自分より弱い立場の人を支配するような行為、たとえばストーキング、虐待、DV、いじめ、集団暴行など犯罪行為にも至ります。

他にも異常性的欲求や(権力)闘争など、世の中の事件をみていますとこれらの事が何か関連していることに気付きます。

問題は異なってもその根は同じです。

本来“普通のしあわせ”を望むはずが、結果的には“普通でない”状態に至ってしまいます。

家族間における共依存

家族関係で問題を抱えた方の話を聞いていると何が原因なのか分からないこともあります。

普通以上の生活をされている方々もいます。

社会的地位が高い方、由緒ある家柄、生活水準が高い家庭、知的でやさしそうな母親、いつも忙しく仕事している父親、聞き分けの良い子供という一見すると普通以上の生活をされている“良い家庭”に問題が生じることもあります。

ただ、話を聞いている中で“何か独特の違和感”を感じます。

生活上では良くは見えますがお互いのこころの間に“気”が通じ合ってないのです。

もちもん共依存を背景とした問題は全ての家庭に起こりうることです。

親の心の根底に“不安意識”が強いと共依存的関係になり、当初は表面上良い関係を装いますがお互い心にプラス感情がもつことが出来ず、エネルギーがその許容を越えた時期をもってその関係に問題が表面化します。

親は “こうでなければならない”、そうしないと周りから受け入れてもらえない、子供は独りになることが嫌で怖い、寂しいという強迫観念が心に住み着き、さまざまな状況をつくっていきます。

親は自分でも気が付かないうちに自身の“こうでなければ”という欲求が強く働き、自分の枠のなかで物事を考え、本来相手が嫌ということでも“良いこと”として勝手に解釈し押し付けてしまいます。

「あなたのためなの」といって親自身の欲求を満たすために拒否する子供に罪悪感をもたせ支配を試みてしまう場合もあります。

なかには夫婦の関係がうまくいかず、お互い離れることが出来ない共依存関係にある状況を子供に対し「あなたがいるから私達は別れられない」と問題を子供に押し付け、子供の存在に罪悪感をもたせてしまう場合もあります。

また親(特に母親)が孤独になることが“不安”であり、その“寂しさ”から子供を自分から独立させることをこばみ罪悪感や不安感をもたせ「あなたには私がいないとダメなの」と子供の自立を拒み手放せない方もいます。

人にとって何が大切かわからず感情にまかせて子供を怒る大人もいます。

共依存関係の家庭は表面的には子供に問題が現れますがその根本的な問題は親の方にあります。

親自身の心の不安感が子供に対して一方的な感情が働き、本来の目的である子供を自立させることから離れてしまい自身の管理下に従うようコントロールしてしまいます。

抑圧された感情はさらにさまざまな問題を生み出していきます。

親は子に自分の価値観に則って教育していきます。

親が偏った価値観を持っていれば子供は親に従い、その価値観を信じてしまいます。

大人からきちんと価値観を教育されないと善悪が分からず育ってしまう場合もあります。

誤った価値観は後に精神や性格の歪みを発していきます。

社会的暗示

私たちは社会のシステムの上で生活しています。

そのため生まれると直ぐに名前をつけられます。

定められたある環境下に育てられることで自己の価値観を確立していきます。

自我は価値観により作り上げられていきます。

日本の社会には国が決めた“ガイドライン”が存在し、そのマニュアルに則って物事が進んでいきます。

生活していく上で大切な教育、医療、福祉、税、経済、エネルギーなどはこのマニュアルによって決められていきます。

システムにおいては“全ての国民が平等である”とうたいながらも、実際の社会に格差と一部の既得権益をつくってしまいます。

社会のシステムの中でおおよその価値観があり、殆どの人がその価値観を信じて生活をしています。

社会のなかで優位な状況で生きるためには一定水準以上の社会的な立場をもたなければなりません。

私達も生活するうちに他人より安定、安心を求める結果、“普通”以上でなければ“いけない”という観念をもっていきます。

社会システムの中で自分は“性能”が良い人間でなければ価値がないと誤った認識をしていきます。

それは“自分中心”の価値観より“他人中心”の価値観を自分でも“わからない”うちに持ってしまいます。

そのことは教育のシステムでも“通信簿”という基準評価によって教師や親など周囲の人間が子供の価値を“評価”していきます。

子供の間でもその“通信簿”を見比べお互いを“評価”していきます。

それは学校を卒業しても社会の組織のなかで常に“評価”はついてまわります。

そこには“ダメ”という評価ではダメなのです。

人には本来、勉強や職業上合わない分野もありますがその人が“ダメ”ではないのです。

周囲がその人に向かって“ダメ”と決めつけることで自分は“ダメ”という意識をつくります。

そしてお互いに他人を“評価”しあうシステムが社会の中で作られていきます。

また生活レベルも“普通”以上を求め、他人と比較し高いレベルでなければ“ならない”意識を持ちます。

評価の中にいる人々は常に“不安”であり、そこから解放されません。

全ての人が評価の対象者であり、そして批判者となります。

人々は表面上の付き合いでは良い関係を装いますが深層にはマイナス感情が存在しているため お互いの心に“気”は通い合いません。

常に社会の中では“緊張”しなくてはなりません。

自我により人々は皆、他人と異なる自分の価値観を形成し“それが自分”と思い込みます。

それが他人との境界を強くし、さらに自己を正当化するべく他人に対して評価し合います。

そして常に不安を抱き、力の強い方に従う傾向に至ります。

時には、たとえ誤った行動でも“保身”のために“力の強い方”に従います。

“命令には服従しなければならない”という価値観がインプットされていれば自ら判断は関係なく指示に従ってしまいます。

中には自己の誤った欲求を正当化させるため、権力を掴もうと試みることもします。

本来、人には自らの発言や行動には責任をもつこと大切なのですが社会的に責任の所在が分からない状態では、多くの人に不平等であっても自分達に優位であれば個人的責任より組織の論理で事が行なわれます。

ともすると私達は社会の中でお互いに妙な暗示に掛かっているかもしれません。

私達の思考パターン

私達は幼少のころから周囲によってさまざまな思考パターンを植え付けられます。

土地柄や習慣、宗教などにより周囲の大人たちから“こうあるべき”という考え方を強要されます。

逆らうことは罪や罰として認識を与えていきます。

「あなたがこうだから悪いの」

他人と違う考えをもつことは理由もなく“否定”されることがあります。

“否定”は生きることに対し非常に恐怖感を植え付けてしまいます。

マイナスのエネルギーは必ず“力”の弱い方に向かいます。

最終的に周囲で一番、力が弱く優しい人が犠牲になります。

実は“言う側”の方もどこかで“言われる側”になっています。

“マイナス”に偏った心は常に安心することが出来ません。

感情もひとつのエネルギーで一定の法則が働きます。

プラスの作用はまた別のプラスの作用に働きます。

マイナスの作用はまた別のマイナスの作用に働きます。

私達は知らず知らずのうちに自分を“自分の価値観”で評価せず“他人の価値観”で評価してしまう思考パターンを持ってしまいます。

仕事や勉強に対し懸命に行い、他人から“評価”を受けることで一時的に安心します。

実質的な目的よりも他人からの評価を気にするような思考になっていることが多いのです。

そしてお互い“評価”し合い、競争を強いられるのです。

しかもこのゲームには生きている限り終わりがありません。

被害者は加害者になり、加害者も被害者になりえるのです。

その結果が社会の歪をつくります。

“うつ”や依存症、虐待、自傷、自殺、犯罪など必ずこの作用が働いています。

そのことを理解しない限りこのマイナスの思考ループから抜け出すことは出来ません。